勉強はやらされても伸びていかない、東大生は自ら学ぼうとするから勉強ができる。
勉強させようと必死に子育てしても、本人が勉強しようという気持ちにならない限り伸びていくことはありません。
勉強させようと思うのでははく、頭のいい子、賢い子を育てようとしていけば、勉強できる子になっていくはずです。
遊びから学ぶこと
特に幼児期において、遊びの中から学ぶこはとても多く、遊びは自ら考え行動する力を養います。
創造性
たとえば、公園の砂場にいた時、大人ならまず何を作ろうか考えると思います。
しかし初めて砂に触れた時に、そのようなことは考えられないと思います。
砂のサラサラした感触、握ってみてもかたまらず壊れてしまいます。
しかし掘って山をつくったときに、押し固めればある程度の形になることを知ります。
また、周りで遊んでいる子を見た時に水が必要だと発見し、団子をつくることができました。
誰もいないのであれば、そこは親が助言してもいいかもしれません。
小さな発見が次に繋がっていくものなのです。
そのうち、カップを使ってケーキをつくってみたり、トンネルをつくって道路をつくってみたり、想像したものをつくるようになっていきます。
それこそが、学びなのです。
社会性
人と関わることで、ルールを学びます。
鬼ごっこは鬼と逃げるものに別れます。
鬼になり、捕まえる時に相手を押し倒しケガをさせた場合、わざとさせたのか、させるつもりはないが、けがをさせるような行為をしたのか、たまたま相手がころんだのか。
人と関わることでトラブルはつきものです。相手にケガをさせるようなケンカはいけませんが、幼児期にケンカをすることは大きな学びにつながります。
ただし、ケンカが一方的に終わってしまったり、第三者が介入してすぐ辞めさせてしまっては何も学びません。
相手がどう考え感じていたのか、自分の意見が受け入れられないことがあることや、多くのことを知る必要があるのです。
幼児期にこのような経験をすることで、少しずつ社会性を身に着けていくものです。
暴力は力に限らず、言葉の暴力もあります。
こんなこといったら、相手が傷つくだろうとか、想像するできる力も必要です。
自主性
何かをしたことで褒められる、またはできたという喜びを味わうなど、成功体験が重要です。
その成功体験の積み重ねが、自主性に繋がっていきます。
自主性を育てたいので、本人の意思に任せていますというのが一番悪いことです。
やるべき目標と意図は明確にしておかなければなりません。何もなく任せるというのは、放任そのものです。
まずはお手伝いをさせて、できたら褒める。
お手伝いをしたことを褒めるのではなく、その中での気づきを褒めてあげることが大事です。
その小さな褒められたこと、できたことが自己満足になり、積み重ねていくことです。
お手伝いに限らず、子どもの興味のあるものをやらせ、やる気を育てを伸ばしていくことも自主性へと繋がっていきます。
幼少期の早期教育は不要なのか
早いうちから勉強させればできるようになるのでしょうか?
たとえば、まだ日本語もできない子どもに英語を教えていけば、いずれペラペラに話ができるかもしれません。
しかしそれは、日常生活で使っている場合を除き、英語力という点では行き詰まります。
幼少期に英会話を習っていたという子はたくさんいますが、途中で辞めた場合、何の意味もなかったという人がいます。
それは、日常生活で使っていないと言語は忘れてしますからです。
両親が英語に堪能ではない帰国子女は、言葉を忘れないために、週に何回もネイティブの外国人と会話をしなければならないと聞きます。
まずは日常生活でコミュニケーションがとれることが重要であり、日本語を母国語にしている場合はまずは日本語を学び、それから他の学力を伸ばすことに専念すべきです。
特に日本の受験に関しては、文法が重要視されているからです。
東大生の我が子は、発音記号を学び、それからリスニングをしていました。
自力でも日常会話程度なら十分できます。
自分で考えられる子に
実際に子どもを育てている時に、褒めてあげなければと思いつつ、なかなかできることではありません。
それよりも怒っている時の方が多かった気がします。
今ならああすればよかったかなと、思うことはしばしばあります。
子育て論はいろいろありますが、子どもの本質はそれぞれ違うので、正解はないと思います。
ただし、自分で考え行動できる子を育てたいということだけは、ブレずに持ち続けていました。
何を目標にし、それにはどうしたらよいか考えられること。
そして考えるだけではく、それを成しえるために行動できること。そういった思考があればいいと思います。
それは世間がどうだとか、流行りがどうだとか、人に流されることがないかもしれません。
そのため、少し変わり者扱いされるかもしれません。
東大生に変わり者が多いといわれる由縁は、そういったことがあるのかもしれません。